「よし、いくぞ!」
Kさん(67歳)は呼吸を整えると、奥さん(60歳)と自分に言い聞かせるようにしてメインダイニングに足を踏み入れた。
スタッフが窓際のテーブルへふたりを案内する。席に着くなり、英語の朝食メニューが手渡された。
Kさんにはまったく読めなかった。しかし、それは予期していたことだった。
レストランに入る前にKさん夫妻はあるルールを決めていた。ふたりだけのルールだ。あとはそれを予定通り実行するだけだ。
ふたりがメニューをテーブルに置くなり、ウェイターが近寄ってきた。Kさんは奥さんと目が合うと小さくうなずいた。奥さんは不安な面持ちでそれに応えた。
「アー・ユー・レディー・トゥ・オーダー?」(ご注文はお決まりですか?)
丁寧に言いながらウェイターはメモを構えた。
「イエス!」
Kさんはきっぱりと答えた。レディファーストを予期していたウェイターは慌ててKさんに向き直った。
「コーヒー・オア・ティー?」(コーヒー、紅茶は?)
「ノー!」
またしてもきっぱり言い切った。
「メイビー、サム・ウォーター?」(お水でもお持ちしましょうか?)
「イエス!」
ウェイターはささっと水と書き留めた。
「エッグ?」
「ノー!」
「ソーセージ?」
「イエス!」
ソーセージ、と書き留めるウェイター。
「トースト?」
「ノー」
「ジュース?」
「イエス」
「オレンジ?」
「ノー」
「アップル?」
「イエス」
アップルジュースを書き留める。
「ヨーグルト?」
「ノー!」
「イズ・ザット・オール?」(それで全部ですか?)
「イエス!」
きっぱりとKさんは答える。
“ずいぶん注文が少ないけど?”とウェイターは少々怪訝な顔で奥さんに向き直った。
「コーヒー?」
「ノー……」
Kさんとは打って変わって奥さんは自信なさげだ。
「ティー?」
「イエス……」
弱々しく奥さんが答えると、ウェイターは紅茶と書き留めた。
「エッグ? スクランブル?」
「ノー……」
「フライド?」
「イエス……」
フライドエッグ=目玉焼きを書き留めるウェイター。
「ソーセージ?」
「ノー……」
「ハム?」
「イエス……」
ハムが書き留められる。
「トースト? ブラウン?」
「ノー……」
「ホワイト?」
「イエス……」
ホワイトトーストがメモに追加される。
「ジュース? オレンジ?」
「ノー……」
「トマト?」
「イエス……」
トマトジュースがさらに追加される。
「ヨーグルト? プレーン?」
「ノー……」
「ストロベリー?」
「イエス……」
ストロベリーヨーグルトが追加される。
「イズ・ザット・オール? サムシング・モア?」(それで全部ですか? 何か他には?)
「ノー……」
ウェイターはふたりからメニューを受け取ると去っていった。
「うまくいったかな?」
「さあ?」
ひと仕事を終えたように、ふたりはホッと胸をなで下ろした。
Kさん夫妻の選んだメインダイニングでは、メニューから好きな物を注文できる。その際、個々の料理の好みまで細かく聞いてくれる。
たいていの日本人乗客は注文にとまどうのを嫌ってブッフェレストランにばかり行ってしまうが、メインダイニングでの朝食の優雅さはケタ違いだ。また、メインダイニングは海面に近いところに配置されていることが多いので、一つひとつの波の動きが手にとるように見えて船旅ムードはがぜん高まる。メニューからの注文といっても、一部を除いて選択肢のほとんどがカタカナ英語なのだ。ちょっと集中すれば、聞き取りはそれほど難しくない。
注文の際には「イエス」「ノー」だけではなく、「○○○、プリーズ!」や「ノー・サンキュー」と感謝の意を添えればそれで完璧だ。
やがてKさん夫妻の前に朝食が運ばれてきた。ウェイターはそれぞれの注文の品をテーブルに手際よく置いていく。
「ボナペティ」(めしあがれ!)
ウェイターが立ち去ると、ふたりは顔を見合わせた。奥さんの前にはいかにも朝食らしいおいしそうな料理が並んだのに対して、Kさんの前には、水とアップルジュース、それにソーセージが3本乗ったお皿がぽんと置かれただけだった。
「どうなってんだ?」
「さあ?」
ふたりは事前に注文ルールを決めていた。どうせメニューも読めないし、何を聞かれてもわからないのだから、「イエス」と「ノー」を順番に繰り返して答えようと。ただし、Kさんは「イエス」から、奥さんは「ノー」から始めることになっていた。そして、ふたりはそれをきちんと実行した。
きっぱりと「イエス・ノー」を即答するKさんに対して、奥さんは自信なげだった。それでウェイターが気を利かせてメニュー確認に選択肢をつけ加えてくれたのだ。ふたりの結果の違いはそこに出た。
「なんで俺だけうまくいかなかったんだ……」
敗因がわからないKさんを尻目に、奥さんは目玉焼きにこしょうを振る。
「少し分けてあげるわよ」
「くそ~、明日は俺が『ノー』から始めるぞ」
悔しそうにつぶやきながら、Kさんはソーセージにフォークを突き立てた。